秋の夜長

連休にも関わらず、かなり気分がダウンしていました。
前が見えなくて、目的や目標がちょっと見えなくて、立ち止まってしまった模様。
そんな気分をズラす方法を開発出来ないものか、気分は気のもちよう、リフレーミング出来れば良いのだけれど、すぐに自分のスキーマに戻ってしまう。

自己イメージと行為の循環をうまくまわせないだろうか?
うまくいっている時は、うまくいくんだけどなぁ。
季節の変わり目ということもあって、夏休みも終わりで、いよいよ、今年も煮詰まってきたなぁ、という感じ。

もちろん、知識はついてるけれど、関連性がイマイチない。
構造化できていない。
もっと、目的と手段の連関をつけて、血肉化したい。
まあ、そもそも、そんな状態がどんなか分からないけれど、一つ一つ起源を遡って、自分の興味関心とリンクさせること、とそういうイメージ。

モチベーションの調整の為にセミナーに参加。
まあ、少しづつテンションとモチベーションをアップさせたい。
人との会話で、その人の中身がみえることは、なかなかない。
たまに、口癖や同じフレーズが散見されることがあったりはするけれど、数時間程度ではとても、とても、また、遠慮しあってしまうこともあるけれど。

頭いいんだろうなー、と思える人でも、あまりオーラを感じなかったり、逆に頭はそんなによくないんだろうなーという人でも、口はポンポン上手かったり。
いろいろです。

僕が最近心がけているのは、クリティカルシンキングと勢いです。
批判的に物事を捉える癖をつけるのは、思考のスタートを切るのには最適なスイッチであると最近思います。また勢いはコミュニケーションを誘発して、思考の速度を高めるためです。

どうしても、一人の対話では限界がある。
大人数でのコラボレーションでコミュニケーションをとることは、視点や視野をかえることや、発想の手がかりを見つけるのに役立ちます。

うまい具合に人間のコミュニケーションを利用して、自分自身や、自分の考えをまとめることが出来るような気がします。

さて、涼しくなってきたし、ここはクールに歩を進めていきますか、、、と。

後半戦

夏休みも後半戦突入。
八月は自己分析&インターンシップ
自分は自分を規定づけるという癖が無いということに気がつく。
なぜか知らないけれど、どっか行ったり、行動したり、まあそんなもんだろうけれど。
結局は結果から因果を規定するっちゅうか、後付けって感が否めない。
というか、結果が分からんほうが面白いという面はあるし。

インターンは、どんな人がいるのか、と多少なりとも業務やロジカルシンキング関連を知れたのは良かったかな。
きている人はいたって順調な感じ。
得に思い悩んでいるというか、就職には思い悩んでいるけれど、人生に思い悩んでいる風な人はあまり見当たらなかったっていうか、雰囲気似てる人が多かった。

コンサル業界の人はネアカが多いっていってたけど、まあ内定する人っていうか、就職する人ってそうだろうな、とか思った。
限られた時間の中で、社会と経済のシステムをまわすためには、思い悩みや止まることが致命的ではある。
学問の世界では、しつこく考えることが重要であるし、トレンドとは関係なしに、自分の関心のある分野を気が済むまで追求できる。
それが向いている人、および、それに最上の喜びと幸せと辛酸を舐められる人にとっては、ベストな職業だろう。

まあ、隣の芝生は〜なんで、言い切れないが、どちらにしろ、これからは社会にでようが、学問の世界に身を置こうが、昔よりも要求されることは多くなった。
だから、何でもチャレンジしなければならないし、いろんな学問領域と価値判断を出来る限り貪欲に吸収するのがよい。
ただ、目的は明確にしておいたほうがよいし、社会に役立てたいなら、それに沿って血肉かしつつ勉強したほうがよいのはそうだと思う。

帰りに「ふんわり名人」。
これが今日の決め手でした。

夏とは一体なにもんだ?

街へ出る。
とにかく出る。
生物の欲望が渦巻く街に出る。
何をするでもなく街に溶け込む。
辺りはさわがしい。私の意識はからまわる。
社会は定常状態を保つ。
そこに存在する異分子。
そのようなものだ。
なぜ、社会はコミュニケーションを絶やさないのか。
なぜ、人は社会の一部となるのか?
今の私は社会の一部にすらなれない。社会にみじんも影響を与えることが出来ない。
とにかく、彼らが何をしているのか、彼らはなぜ、自分のような意識から逃れられるのか。
ただ、気にしてもしょうがないと無意識で悟っているだけなのか。
深いところまで踏み込んでみたい。

6月の終盤戦

さて六月も最後になってしまった。
あぁ、もう本格的に夏なのね・・・、というか梅雨はどこへ行ったの?雨があまり降ってない!
こりゃマジいぞ。電車の中もホームも人がいるところは湿気がすごい。研究室とか家は快適なのだけど、クーラーをつければかなり快適。クーラー様様です。

とりあえず七月の頭というか今日までには、ゼミの準備と進捗ペーパーをださなければならぬ。
どうしよう・・・。
ほんと事務処理能力ないよなって思う、こんな奴が大学院いていいのか?(笑)
まあ笑い事じゃなく、真面目に・・・ね。

どうも、自分の完璧主義プラス怠惰がネックになっていて、提出物や課題がきっちりデッドラインまでには終わらない。
どこまでやれば必要十分なんだろ?
この期間でまかされた仕事なら、この程度って感覚をつけるべきなの?
どうなの?

七月は授業の試験とレポートと個人報告などで忙しくなりそう。
最近遊びが足りないな。
フィールドワークもしたいのに・・・。
というか、慣習と規範の調査とか、コミュニティに潜入調査とか、ジャーナリスティックな活動がしてみたかったり。でも、シャイだから出来るのだろうか?
アンケート調査とか、現場にいってみたいのだが。

それど同時並行で社会システム理論を勉強していきたいのだが、まだまだ優先順位として浮上してこない。
いつごろかな〜、と待ち焦がれる。

気分転換

久しぶりの日記です。
今まで何で日記書かなかったのかよくわからないけれど、色々迷っていたみたいだ。
大学院に入ってからしばらく経ったわけだけれど、どうなんだろ?
社会学やってんだか、文化人類学やってんだか、民俗学やってんだか、云々かんぬん。
お隣の研究室、といっても一緒だがは社会シュミレイションで地域通貨とかロマンチックラブイデオロギーの研究とか、社会心理から、シュミレイションを立ち上げることをやっててなんか面白そうだけれど、自分はまだ手をつけられていない状況。
というか、出来るんだけど、なんかうまくいかないなぁ。
もちっと気合いれてやりたい。

とりあえずは、システム論と社会心理をベースに研究の問題意識に幅広さを持たせようとする。
自分が面白いほど、社会のこと、世間のこと知らないことが仇となっています。
数理モデルつくるにもアイデアいるし、アイデアだけではなく、方法論も必要だ。

研究室や専攻は議論が出来るのはいいけれど、ある種弛緩してしまうのが弱点。
共同体は大事だと思う。そして馴染めないのは、自分の自尊心のレベルが低く、幼稚なのは間違いがない事実なのだ。
会話していて、答えられなかったり、知らなかったりしていて、いやだなと思う自分がいるのは事実だし、実際それが自分なのだ。
コミュニケイションとりたければ、とればいいのに、生産的なコミュニケイションが出来ずにいる。
周りの人には、うまくコミュニケイションできている人が大半だ。自分を半分だし、あとの半分は聴くことに徹している。僕は自分が七割で、他者の割合が三割なのだ。
そんなに承認してほしいのか?うーん、確かに認めてもらいたいのかもしれないけれど、認めてもらえて、そんなに嬉しいのか???
どうしたら、自分も他者も満足いく会話が出来るのだろうか?

さて、そんな事を課題にしつつ、夏に向けてインターンの準備をすることだ。
もちろん研究の準備も進めないといけないし、常に本や映画や刺激になるイベントに参加して研鑽せねば。
常に走る、走る。
やることはいっぱいあるぞ。

ひっそりとした部屋

ひっそりとした部屋にひとりっきり。
なんか、しんみりします。
まだ、机の明かりやパソコンのディスプレイのおかげで真っ暗ではないけれど、これだけ静かで暗いと、意識がから回る。

自分は今まで何してきたんだろう、とか、これから自分を変えるにはコミュニケーションしかないのだろう、なんて漠然に考えるけれど、脆弱な自己意識が邪魔をする。

自分が他人にさらされるのが、どうしてこんなに嫌なんだろう。
日本の風土があるのかもしれない。他者の視線になかなか耐えることができなかったりする。

昔から思っていたのが、他者にイメージされてしまうことが本当に嫌だということ。
今はそこまで意識して思わないけど、本音ではそう思っているんだろうか。
理想の自分を見てほしいのか。都合がいい話だな、って思う。

気がつけば大吉

どうでもいいならば、どうでもいいやっ、なんて言葉にはしない。
こんなことは誰だって知ってる。
純な人間は認めたくないだけだ。例にも漏れず私はそうな訳だが。

タガをはずせば、どうしようもない。
いくら世で正論をはいても、本音は・・・どうだろうね。

でも、わかっちゃいるけど関わっていく。
それは本物。

分かっていても、やっぱりコミットメントしたいっていうのは、きれいごと抜きに本物なのも自明だろう。

それでも私はこれにコミットメントしたい。
とりわけ、才能や実力がある人に見られる傾向。
コイツはなんでこんなことやってるんだろう???と周囲には必死なわけでございまして。

単なる使命感、宿命って言葉では簡単に片付けられるけれど、そういった地道な人間の共感作用が、世代や人類を結ぶための継体であって、それは皆直感的に知っているのだと思われる。

それは別に意味があると当人も誰も思っていやしない。ただただ、本能に従っているだけだ。
論理的には不合理でも、実存的には合理的であるのだ。
それが覆っている限りは・・・きっと大丈夫なのだろう。