ディズニーランド的不可視性

一昨日、昨日と単発でアルバイト。
久しぶりの肉体労働。
高校を卒業してフラフラしている期間に引越しのバイトをした以来かな。
主に事務所や高級マンション(億単位!)の作業手伝い。

バイト自体はくそつまらないし、結構だらだらする場面もおおくて(手際が非常に悪い!)うんざりすることが多々あったが、体を動かす事はそれなりに心地よい部分もある。

っていうか、久しぶりに筋肉痛になった。
足腰が痛いし、足の裏の筋肉が悲鳴を上げている。

引越しの作業とか、片付けとか現実的なことをやると、自分が普段考えていることの乖離を意識できる。

ああ、やっぱ現実ってつまらないな、とか思ったとおりには人は動いてないし、なんか流れに動員されちゃうなってやつで、アタマは所詮クライアントやしきっているやつってことで、いかに権力や中央集権的スキームが社会では幅を利かせているのかってことは良く分かる。

現場はひどい。ロジスティクスの現場は理論どうりなんて、とてもじゃないがお遊戯に感じてしまう。
とりあえず手と足を伸ばさねばならない。実際に動かなければならない。ボーッとしてても現実は何もかわらないのだ。
しかし、もう少し各々がロジスティクスのソフトウェアを内面化したほうがよいのは事実。
それは研修で時間をかけたり、適切なブレーンが現場には必要(体は動かさなくてもいいから)だし、もうちょっと有機的な動作が出来ないものか。
誰かが無作為に動き回るのでなく、適切に必要最小限に動くシステムは作ったほうがいいな、と思う。
それには前準備がかかせないのだ。

それにしても、世の中の表は”きれいすぎる”。
裏はとてつもなく、地味で、そんな表のきれいさを微塵も感じさせない。
こうやって隠蔽が在るのは間違いのない事実なのだろう。

春のなかの、涼しげな

ようやく春が定着してきたようですね。
最近は自転車に乗っていて心地よい。
ちょっと前までは冬の寒さの名残がまとわり付いていたけれど、それが振り切られたようだ。

寒いと心持ちもなぜか冷静にお寒くなってしまう。
気持ちが内向的になり、体がぶるぶる震える。
遠い日のことを思い、近くのことがおろそかになってしまう。
独りでいることは、そんなことを強く感じさせてしまうのか、毎日冷静というか、必死に体を温めようとしていたのかもしれない。

独りでいると、自己言及せずにはいられない。コミットメントする対象が自分ばかりだからだ。
それは良い側面もあろう。共同体に埋没している主体からは社会システムや経済システムは客観的観測が出来ない。
一歩引いたところから、冷静に視点を俯瞰させるようにする。
そうすればメタレベルの思考が容易になる。

もちろんシステム自体に埋没することも必要だ。
身体感覚やありたいていの日常の相互作用。
これを肌で感じなければ、主体としての感覚が得られない。
遠くと近くの目線での往復運動。
とりたてて言語にするまでもなく、皆がそれぞれ時間のスパンは違えど実践していることと思う。
それの周期を決めるのは自分の意思決定でしかない。
しかも単純な・・・ね。

独りでいることは、どこまで自分を知ることになるのだろうか。
自己をしるために、自己以外を知ることもあろうし。
自己をしるために、ひたすら自己に関わることも必要だろう。

己が導きだすベクトル空間はどれほどの空間であろうか。
自由度は、独立性は、そして志向する座標はそのベクトル空間に包摂されるものだろうか。
それを決定づける要因は一体なんだろうか。

人々は常にみづからの元を他人に写像する。
そして自分と相似形なトポロジカルな性質に対応づけて、共感や実感感覚を得る。
それは論理的にでもあり、実に直感的である。

どこまで自分が自分でいられるのか、その因子は何なのかには常に注視しつつ社会に挑んでいきたい。

研究室訪問

昨日は今年からお世話になる研究室に訪問した。
院生&同級生&指導教官の方と初見した。

皆、出所がばらばらで、工学系、教育、心理、社会、政治、機械と多様。
そのせいもあってどの辺が共通の話題になるだろうかと考えるも、なかなかうまくいかず。

院生の方はいろいろ配慮してくださって、感謝。
食事をご馳走になった。

いろいろ話を聞いていくうちに迷うとともに、ある種の決意は生まれた。

やれることはどんどんやっていこうと思う。

そろそろ始動すべき時だ

うんぬんかんぬん引き篭もって早四年。
それなりの知識や知恵はついているはず。
けれど実践となると、とてもじゃないが何も出来ない。

というか、こんなことを書き付けている時点で何も出来ないことの証左である。
自分がやりたいこと、やってみたいこと、思い思い描いていることを実践し実行しているのであれば、こんなところに、こんな事を書く必要はないはずである。

必死に実現するために、出来ることをやっている筈であるから。
無限は手に入れられない。
理想を思い描き、大きなことをやってやろうと思う事も、まあ自由であるが、自分がやれることってもっと身近にたくさんあったりする。
それを1つづつ謙虚にこなす必要がある。

それは無駄だな、と思うことにこそ内包されている事実である
例えば、無味感想な単調な訓練や基礎学習など、それがメインではまずいが毎日毎日地味に繰り返し、それプラス自分が研究したいことなどをこつこつと埋めていく。

それをやるのに必要な訓練も、想定してないことがたくさんあるはずである。
おそらく天才というのは、そういうのを当たり前としてとらえているから、吼えていないんだと思う。

つまり、レトリックがたくみであっても、それは結局は物語つむぎであって、何かを創造したことにはならない。
結局は、ぶれないで禁欲的な態度が基本なのだと思う。

日本人が論理や芸術に弱いのは、やっぱこのあたりの本質的な弱さにあると思う。
とにかく批評や批判ばっかりで、行動がともなっていないのである。

GO SHOPPING

たまにはシャバに、書を捨て街へ出よう!ってことで渋谷に行く。
って昨日も暇だったから(おいおい)、東横沿いをぶらぶら、自由が丘とか代官山とか原宿とかぶらぶらしてきました。
全く無目的に、駄目ですね、目的が定まらないと何していいか、どこ行っていいかわからない、けれども何処でもいいんですよね実は。どこでもいいから入ればいいのに・・・。
こういう時間は無限にあるものでないし、出来る限り大切に使いたいけれど、何しろ久しぶりにぶらぶらしたもので、軽く眩暈がしましたよ。
で、デッキシューズを一足かいました。
内田樹先生の下流志向読んでいたら、ちょうど消費主体のことが書いてあってめちゃくちゃドカンとやられてしまって、確かにそうだなー、商品買っても主体は変わらんなーと思って、叫びたい気持ちでした・・・。電車の中で。
最近(#゚Д゚)y-~~イライラしてしまうのはなぜ???
いやだなあ、たぶん知ってしまうことは知らなかった自分がむかつくんだろう。何言っているのかわからないけれど、それほどに無知というのはつまらないっちゅうことかしら、というかもっと色々考えて認知していかねば、と啓蒙されました。
オススメですので、皆さんも買い物する前に読んでみてください。
これは子どもを持つ親の方は必読ですよ。ゼッタイ。

ホロスコープナイト

自分と天球の話です。
自分から見た外でもいいです。
自分から外側を見た場合、自分以外は見えるわけですよね。
そんで自分以外の外側の動きはだいたい把握できるわけです。
近似的な動向は。
そのなかで不動にみえるもの、つまり社会や世界の動きと相対的には静止しているものもまあ理屈上みえるわけです。
変化があれば基準を設定するわけで、そうするとその基準はその主体にとってはフィックスせなあかんから。
科学はそのフィックスはどこどこにありますよ、ということを前提にして、その上に推論をつむものですよね。
だから、その基準、まあ視座をかえれば、そりゃ違った推論があり、なわけです。
本質的には同型。
でもロゴスが違う、言語が違うんです。
要は、汎用性があるロゴスを使えば、ある程度近似的に統一的に主張できると思われる。
それがシステム論なのではないか、システマティックに体系をあえて作る理論的視座のありかた。
メタレベルまでおとしこむと、そのシステムも射程範囲におさまってしまって、数学的イデアの極限関係をコンシダーするしかない。
まあ、こういった考え方は、どうしても整理、や統合の視座にしか収まらない。
だから、新しい何かを偶発的に生み出すという方向性にはならない。
たとえると、ばらばらになっている離散集合を束ねるための枠を作る。
建築で言えば、帯筋の役割である。
ばらばらなままでは、不便だよね。強度もでないし、揺れに弱い。だからある程度はまとめておこうよ、という考えに近い。
たぶん僕はこういうことをやりたいんだと思う。
ずいぶん保守的だけれど、それが事実であるかもしれない。
ただ、まだタガを外す機会はあると思うんだけどなぁ。
と、淡い期待を。。。

どう進むにしろ、どういった視座の要素も有りだし必要なのだと思う。
そのシステムを維持しなければいけないから。
だから自由って言ってもいいけれど、自由っていえる今の視座を維持するためにはこれが必要ですよってことは言わなければダメだし、生きていきたいなら保存しなければマズイと思う。
それをしなくていいやってなったときは、生物、主に人間の考え方が変わったときだと思う。
まあつまり人間が皆さんが思う機械とアイソモルフィックだとあたりまえに認知できるようになったときだと思う。将来的にはたぶんそうなるんだと思うけれど。
そうなると、ダイバージェントとコンバージェントが共存できて、つまり安定構造を個の中に保持できるようになるから、おそらく社会や世界を気にしなくていいんだと思う。
どちらにしろフローは不可逆で、生まれたものは滅することは変わらない。
生きることは変化することである。
変化は以前の状態を捨てることである。
つまり、自分はつねにオニュウなのである。
そんなに探さなくていいんのであった。

卒業

映画「卒業」

卒業 [VHS]

卒業 [VHS]


ダスティンホフマン主演。
卒業シーズンってこともあってレンタルして観てみました。
面白い。
主人公ベンジャミンと人妻ロビンソン婦人との逢瀬。
婦人の娘のエレーン。
そして家族達。
それぞれの関係が分かりやすい。
ベンジャミンは四年間勉学にいそしんだ。
その後は気がぬけた炭酸飲料のごとく、まったりと毎日を過ごす日々。
プールに寝そべっては、逢瀬を繰り返し、エレーンとデート。
親に何を言われようと、「何もしたくない」。

21歳とかその辺ってのは、教育のシステム的な区切りがあるので、どうしても将来どうしようかな〜、と不安になるものです。
不安ってのは神経症の一種のようなものかもしれない。
不安ってラベル付けして、執拗に思い込むものでもない。
不安とか、自信のなさから何かを想像しよう、創造しようっていう意志が生まれるというのは否定できない。
自分の中の矛盾も否定できない。
それは肯定してやっていくしかない。
そういったネジレが必要条件であるのは、言うまでもないと思う。
すべてが整然と並んだ状態っていうのは、一生平行線ってのはありうるだろうか???
イデアの世界では、そうであるとする。
けれど現実世界では、そんなもの曲げてしまえばいいってことが往々にある。
想像力で、はたまた力で。
出来るだけフレキシブルに。