コミットメントすることにコミットメント

僕にとって、ある特定の事に関わり続ける事は容易ではない。
今までにある対象だけにひたすら関わってきた事があっただろうか。

例えば、人や社会関係や、あるいは想定した対象に、である。

人であれば一定期間であれば、いるかもしれない。
両親や兄弟すら、今までずっと一緒にはいるものの、積極的にお互いの行為に関わることは無かった様な気がする。

社会の運動や組織に積極的に変革するだとか、何か付加価値を与えるという活動という意味での関わりも少ない。

せいぜい部活や、大学の研究室、またはアルバイトの職場などであろう。

思えば、言い方は悪く聞こえるが、ある人からみたら逃げているように見える。
実際、何か自分は何かから逃げているな、とは思ってしまっている。
責任を負うことや、何か面倒なことに巻き込まれることも嫌であったし、それほど強い興味も魅かれなかった。
しかし、あえて選択していたら、それはそれで違った自分になっていたのかもしれないのだが。

どうあれ、反実仮想では何とでも言える。もし・・・してたら、こうなっていたのに。
もし・・・なら、こうだったろうに。なんて、ヒマさえありゃ、結構思いつくし、若干のリグレットを感じることもある。

そこには、自分にとっては不要だと思う規範意識や、環境による影響、そして、何あれ事実からは目を背けていたのかもしれない。
そこからは、結構自分のある種のナルシスチックな妄想や想像に取り付かれるようになったような気もする。
概念をこねくり回したり、ある対象に没入したり、何かに耽って気を紛らわしたり。
実は本当に知りたかったことは、それではないことに気が付きつつも、ある種の悪い強化学習的効果か、自己イメージを変えて、別の行為の方向性へと動機付けることには、今でも失敗しつづけている。

原因は帰属処理し、ある理論で導かれた理由に納得したり、家庭環境や、他者の振る舞い、そして社会そのもののせいにしていた部分も、たぶんあるのだろう。

それを知りたくて、精神世界や社会学の理論でガス抜きしている部分はあるし、今でもそうなのかもしれない。
それは、感覚としては選択というよりも、取り付かれたように選択されているようにも感じる。
自分が見たくないものには蓋をし、自分が見たいように見る。
そんな態度は次第に、他者を遠ざける結果となっていた。
まあ、自覚的にやっていたことであるし、結構諦念でもあった。
そして、今もどうにかしようとは思っているが、どうにも出来ない自分もいる。

環境を変えても、自分の意思が変わらない限りは、たぶんこれからもずっとそういう生き方を選ぶのだろう。
それはそれで別に悪いことではない、それで誰かに迷惑をかけることがあれば、治すべきだとは思うが、それなりに生活できるならば、それはそれで一つの特権なのかもしれない。

けれど、自分自身では納得いかない部分もある。
ありのままの自分があるかは分からないが、ある部分ではもっと現実的に自分が出来ることを社会や他者に問いたい。
そしてその反応に対し、真摯に答えたいとも思う。
その批判に耐えられないうちは、まだまだだなぁと思う。