あまりに大きな、あまりに小さな、その顛末は?

久しぶりにウェブログに帰還。
現実と妄想の狭間にという、冷静と情熱の間にではないが、こうやって、思ったことを書くというのも確かに悪くない。こういうのは日本的なものなのか、欧米人もこういった日本的なブログの乱立って起こっているのか知らないが、どうにも前提やオリジンを追求するモチベーションが沸かないのは何故かなと考えてはみるが、答えは出ない。
つまり、目的自体が、こういった行為なのだから、それが何故かと考える土台には成り得ないのかな、と考える。

コミュニケーションが目的、あるいは感情のガス抜きが目的であって、コミュニケーションによって何か別の目的を達成させるという内発的なものではない。
前者をする機能を担う機会があまりないせいか、規範のダブルスタンダードの成せるわざなのか、本音を現実世界で言う機会があまりない。昔は一人部屋でひっそりと日記を書き綴ることであったり、一人部屋の中でギターを弾いたりがそれにあたっていたのだろうか。
今は、インターネットの不特定多数にそれを開示することの価値が大きくなり、それが大半を占めた。
それが信頼や絆の構築に役立つのかは確かではないが、不安や疑心暗鬼を紛らす、あるいは対症療法的にまぎらす道具にはなっているかもしれない。
それはそれで「日本的」な現象なのか。

個人的には、この環境はあまり好きではない。
自己言及してみても、なんでこんなくだらない文章かいて、インターネットの空間で吐露しているんだろうという自意識に駆られる。
別に、いいたいなら言えばいいだけだし、特になにがあるわけでもなく。
ただ、みなそういった気持ちに駆られないのかな、と不思議に思うし、なんだかなぁと感じているんですね。

SNSにしても、各島宇宙的な研究室にしても、大学や企業、その他の共同体にしても、そういった感覚を生じてしまうのですね。

歴史をさかのぼっても、その各集合内が共有する価値観や規範の分布や伝播は問題になったわけで、ある対象を弾いたり、排除し、選別したりしている訳です。人々が異なる人種、価値、規範、道徳、宗教を構築してしまっている事実がある以上仕方ないだろう。
そして、自分自身もそれ以外の集団を排除したいという表れでもある。
これはアンビバレントな感情であるし、論理的にも、それに合意しろとは言えない。
それは、それぞれ各人が選択することに過ぎないし、誰しも、それに確かな理由や根拠などなく、端的な意思によって成されていることに、せいぜい気がつくだけだ。

何がいいたいか、つまり、そう感じて、思ってしまう自分が何ら根拠や理由なく、ある価値観へのコミットメントが足りないということ。それを前提にして、なお他者と共生していこうとひたすら表現すること。
可能であれ、不可能であれ、そんなことは問題でなく、それの信念をいかに自分自身のなかで緻密に構築できるか、だけである。
結局のところ、自分で自分を認めてやるしかないし、その前提を自ら創り出そうとし、さらに前提をさかのぼれるまでさかのぼり、徹底的に原理的に追求するしかない。

それもまた排除の対象になるだろうが、しかたない。
社会は、それでも象徴的に回転しているのだから。