春のなかの、涼しげな

ようやく春が定着してきたようですね。
最近は自転車に乗っていて心地よい。
ちょっと前までは冬の寒さの名残がまとわり付いていたけれど、それが振り切られたようだ。

寒いと心持ちもなぜか冷静にお寒くなってしまう。
気持ちが内向的になり、体がぶるぶる震える。
遠い日のことを思い、近くのことがおろそかになってしまう。
独りでいることは、そんなことを強く感じさせてしまうのか、毎日冷静というか、必死に体を温めようとしていたのかもしれない。

独りでいると、自己言及せずにはいられない。コミットメントする対象が自分ばかりだからだ。
それは良い側面もあろう。共同体に埋没している主体からは社会システムや経済システムは客観的観測が出来ない。
一歩引いたところから、冷静に視点を俯瞰させるようにする。
そうすればメタレベルの思考が容易になる。

もちろんシステム自体に埋没することも必要だ。
身体感覚やありたいていの日常の相互作用。
これを肌で感じなければ、主体としての感覚が得られない。
遠くと近くの目線での往復運動。
とりたてて言語にするまでもなく、皆がそれぞれ時間のスパンは違えど実践していることと思う。
それの周期を決めるのは自分の意思決定でしかない。
しかも単純な・・・ね。

独りでいることは、どこまで自分を知ることになるのだろうか。
自己をしるために、自己以外を知ることもあろうし。
自己をしるために、ひたすら自己に関わることも必要だろう。

己が導きだすベクトル空間はどれほどの空間であろうか。
自由度は、独立性は、そして志向する座標はそのベクトル空間に包摂されるものだろうか。
それを決定づける要因は一体なんだろうか。

人々は常にみづからの元を他人に写像する。
そして自分と相似形なトポロジカルな性質に対応づけて、共感や実感感覚を得る。
それは論理的にでもあり、実に直感的である。

どこまで自分が自分でいられるのか、その因子は何なのかには常に注視しつつ社会に挑んでいきたい。