ホロスコープナイト

自分と天球の話です。
自分から見た外でもいいです。
自分から外側を見た場合、自分以外は見えるわけですよね。
そんで自分以外の外側の動きはだいたい把握できるわけです。
近似的な動向は。
そのなかで不動にみえるもの、つまり社会や世界の動きと相対的には静止しているものもまあ理屈上みえるわけです。
変化があれば基準を設定するわけで、そうするとその基準はその主体にとってはフィックスせなあかんから。
科学はそのフィックスはどこどこにありますよ、ということを前提にして、その上に推論をつむものですよね。
だから、その基準、まあ視座をかえれば、そりゃ違った推論があり、なわけです。
本質的には同型。
でもロゴスが違う、言語が違うんです。
要は、汎用性があるロゴスを使えば、ある程度近似的に統一的に主張できると思われる。
それがシステム論なのではないか、システマティックに体系をあえて作る理論的視座のありかた。
メタレベルまでおとしこむと、そのシステムも射程範囲におさまってしまって、数学的イデアの極限関係をコンシダーするしかない。
まあ、こういった考え方は、どうしても整理、や統合の視座にしか収まらない。
だから、新しい何かを偶発的に生み出すという方向性にはならない。
たとえると、ばらばらになっている離散集合を束ねるための枠を作る。
建築で言えば、帯筋の役割である。
ばらばらなままでは、不便だよね。強度もでないし、揺れに弱い。だからある程度はまとめておこうよ、という考えに近い。
たぶん僕はこういうことをやりたいんだと思う。
ずいぶん保守的だけれど、それが事実であるかもしれない。
ただ、まだタガを外す機会はあると思うんだけどなぁ。
と、淡い期待を。。。

どう進むにしろ、どういった視座の要素も有りだし必要なのだと思う。
そのシステムを維持しなければいけないから。
だから自由って言ってもいいけれど、自由っていえる今の視座を維持するためにはこれが必要ですよってことは言わなければダメだし、生きていきたいなら保存しなければマズイと思う。
それをしなくていいやってなったときは、生物、主に人間の考え方が変わったときだと思う。
まあつまり人間が皆さんが思う機械とアイソモルフィックだとあたりまえに認知できるようになったときだと思う。将来的にはたぶんそうなるんだと思うけれど。
そうなると、ダイバージェントとコンバージェントが共存できて、つまり安定構造を個の中に保持できるようになるから、おそらく社会や世界を気にしなくていいんだと思う。
どちらにしろフローは不可逆で、生まれたものは滅することは変わらない。
生きることは変化することである。
変化は以前の状態を捨てることである。
つまり、自分はつねにオニュウなのである。
そんなに探さなくていいんのであった。