息抜き

今日は卒業論文本稿の提出。
9時ごろに学校へ向かう。
いつの間にか電車の定期券の期限が切れていたので継続する。
でも、あと何回学校に行くのかな、と訝しげに思う。
いや、わからんぞ、もしかしたら単位が足りない、または後期に単位をおとしまくってGPAが足りないということで卒業できません。っていうことはマジでありうる。
って、いつも不安に思う僕は成長できていませんね。
なんか癖って恐いなと思う今日この頃。

教育学部の棟へ行って、サクサクっとtexの編集。
学校のtexのやり方わかんないから、前日にeasy texをインストールしていたので順調に進む。
正直論文の校正に時間が掛かりすぎた。
自分で学習した内容をまとめるという行為は大事だと思う。
やっぱり分かったつもりになっていることが多いから。
読書にしても、かなり主観入り込むことが多い。
客観的に論理的に読みこなせているかどうかは自信はない。
ショーペンハウエルも言ってる。読書は他人に考えてもらっている、と。
基本的に読書は自分の創造的な行為ではないように思う。
自分でない人が書いているのだから当たり前かもしれないが、今は濫読し多読したい年頃です。
単純に教養が欲しいということなのだけれど、それはそれでいっか。
理系と文系のはざまにいると、こういうことをよく思う。
人文の学習は多くは資料を読みこみ、レトリックを蓄えることであると思う。
そうやって言語的な訓練をつめば、ある種のものは引用的に生み出せるのかもしれない。
けれど、このやりかたは理科系的な勉強とは何か違うと考える。
どうしても仮定、演繹的なモデルが多い理系の方法論との違いが気になってしまう。
理系の学問の場合は定義と、それが織り成りなす定理と補題が中心になって、その道程は有無を言わせないのであるが、人文系ではそうとも限らない。
まがりなりにも物理学、数学をかじってると、それに対する違和が生じる。
こんな解釈でいいんか?一般的にいえない。条件が必要。それは確かに理科系の学問においてもそうなのだけれど、人文の場合は、「ごまかせてしまう」。
それゆえに、いろんな議論は出来るけれど、だから何?的なことがおこってしまう。
ここが、自分にとっては岐路なんだなぁ。
とりあえずは留保しておこうと思う。
自分がよければそれはそれで構わないけれど、あえて理想を振りかざせば、その程度の事だけに自分の人生をささげるのはもったいないなぁとおこがましくも思うのであるから。