パラダイムに乗るというか、乗せられている

一体僕はどこにいるのだろうか?
「どこに」の「どこ」という端的な問いは、太陽系の地球とでも言えばよろしいか。
そういうことじゃないな、一体全体僕は何を思考したいのだ、ということは全く良く分からない。だから、哲学的ゾンビという形容は納得がゆくものだ。
人間の意識はなにかあてになるもんじゃないな、と。
ちょっとした他人や、自然現象で人間の意識は変容してしまう。
現在コミットしている現場に、そして学問に、思想に容易にコンタクトプロセスに感染してしまう。
インターネットはそれを助長した、もちろん既存のメディアもそう。メディアというものは、すべからくほとんどの物体がメディアになるのであるからはっきりしていないけれども。
人生スケールで考えるならば、人生はランダムとしかいいようがない。
ちょっとした契機で人間は変わるはずだ、という仮定をすれば。
今までになかった出会いが劇的に主体を変革する。そして一時その志向性が高まったうえに、別の志向性の渦に飲み込まれる。
現代人にとって、そのスパンがものすごく短くなっており、それが周期的に繰り返しているように思われる。
別にそれでいーじゃんとも思う。
それの是非は問えないし、問うべきでない。
それなのに哲学的にロマンティックな想像をする。
それで良いではないか、といえどもそれに納得できないヒトもあろう。
この一連のプロセスこそが、その人のその人たらしめる唯一の証拠なのであろう。