「意味のない」ということに内包される意味という意味・・・

大竹伸朗行ってきました。久しぶりに家族を誘っていったのだけれど、本当は一人で見に行こうかと思ったけれど、たまには人とコミュニケーションせねばという気持ちと、やっぱり家族が基本ということで・・・。
久しぶりに自分以外の人間に合わせたので疲れたというのが正直なところ。
肝心な展覧会のほうは「よかった。」
もちろん?僕は美術的なセンスも知見も持ち合わせてはいないが、そんなものはいらん!ってのがいってみてからの印象。
彼は彼なりのコンセプトで、あえてというか、たまたま油絵に興味をもって美術をやって、自分を表現していたということでしかない。
大量の作品群には、どれも彼のカテゴリーの中に相当するのだろうと思わせる。
他の人では有り得ない作品。彼独自の固有値(eigen value)。
世の中には有限であろうとも、無限に近い組み合わせが存在している。
それを揶揄しようとパターンは数限りなくありすぎて、人間の一生ではとてもとても全ては覆えない。
だからこそ歴史が存在している。
彼は幼少の頃の作文で「古きを守ることが、人を守ることになる。」ということを胸に刻み込んでいたように思う。
人の営み、文化をあるカタチにして蓄積していく、それによって次世代、次世代へと脈々と適用され引き継がれていく。
それが絶えた瞬間には人はいなくなる。
人が生きていたという「オブジェクトというオブジェクト」を遺す事のみが我々人間が出来ることだと思う。
人それぞれに考える価値や意味はあるだろう。
それは等価、とか相対的とかいう言語に置き換えてもよいが、そういったスケールの問題ではない気がする。
ミヅカラを原点とし、そこから世界を再構成するしか今のところ世界を把握しえないのならば、一人の人間が出来るのはミヅカラを認識しようとする限りなく絶え間ない生き様なのではないか。