管理する必要あるの?

昨日夜遅くまで漫画を読んでいたためか(「ラストイニング」)エンジンかかるのが遅かった。
あ〜時間がもったいない・・・とコーヒーを飲みながら、のほほんとしていると、いつの間にか家庭教師の時間。
しょうがないから、コートとマフラーをまとってチャリで生徒宅に直行、しようと思うが信号に恵まれず、なぜかちょっと遠回り&迂回していく。
なぜか、信号がなかなか青に変わらない。そんな大した時間でなくても動いているときは時間が長く感じられる。それなら寝る時間をもっと少なくしろよ、とそうすると頭は働かないし、眠いしと板ばさみ。
チャリをこいでると最近動悸が激しくなる。通常の周期を明らかにこえた鼓動運動。
たまに心配になるけれど、別段どうってことないっていつも思っている。
敏感な人は逐一このようなことを描写するのだな、と思う。
例えば被害妄想つよいひと、とか妄想力が強い人とか、想像力がインフレーションしてしまう人とか、シンクロニシティとか敏感に常に感じ取っているのだろうと思う。
それに循環不安を感じるのだろう、僕はあんまりそういうことはないけれど、最近は気にしたほうがいいと思ってる、確かに微小時間あたりの変化って、それがつみかさなると大いなる方向性と力を持つと思うし、でも余計な考えだな、とも思ったりする。
他人のちょっとした言動の変化とか、表情の変化、言葉尻とか、結構こだわれば色々汲み取れるけれど、結局それは自分の妄想ってことが多くて、主観が挟む余地をすごく残している気がする。
客観的にみるって、結局主観が入り込むんじゃないかとも思うけれど、限りなく主観を排することは可能であるとも思う。例えば直感で思ったことを調べて、一般的にそれが言えるかどうかをチェックするとか、特殊な場合に相当しそうだ、とか、統計的に有意っぽいとかは結構努力すればいえると思う。けれど忙しい現代人にとっては、そんな面倒な努力というか手間は掛けまい。
それならば、新しい素材にアタックしたほうが、よほどチャレンジングだし、刺激的であるからだ。
そうやって毎日を、日常を経ていれば、人間の一生なんて、終わりなき日常とはいえ、十分にヒマなく過ごせるだろう。これまでの蓄積したネタなんて一生じゃ尽くしても尽くしきれないぐらいあるのだから。
最近は情報も過剰に摂取できるし、それなりに処理できてしまう。つまりそれなりには分かるし、理解できてしまう。それで、「まぁ、今回のことはこれでいっか。ネタにはなるし」ってな具合になりがちじゃないかと思う。けれど昔情報が今以上ないときは、それこそ、ひとつのネタに自分の人生全てを投げかけたわけで、それを考えると現代人のモノの考え方って不自然だなと感じる。
もう光や、空をみて素朴に疑問に思うこともないし、地球そして宇宙という全体性にコミットすることも少ない。もちろん、それが全体性ともいえないわけだが、もちろん身近なミクロコスモスも腐るほどある。ミクロとマクロの関係性とアナロジカルな性質を汲み取ろうとする態度が必要ということだろう。ほとんどがミクロコスモスの一端で閉じこんでいる。そうせざるを得ないとこもあろう、けれどもう少し、そういった態度があってもいいのではないか。
オートポエティックな態度という、生命的な態度は必ずしも”情報”にコミットメントすることではない。情報という情報に常に接続する限りない限りない真摯な態度にコミットメントする。
だから巷で”想像力”だとかそんなんぎれごと言って終わって欲しくない。
その程度なら、今すぐドロップアウトしろ!