自由な、不自由な拘束具

昨日の卒論ゼミの後は久しぶりに開放感があった。
久しぶりに数学セミナーだったのだが、多少思考していたことが放出されるとスッキリする。
そして昨夜はよく眠れた。
こういうときのビールもめちゃくちゃうまい。本を少々酔った頭で眺めている、その時の気分は本当に幸せだ。
誰にも邪魔されず、とりあえず一日やるべきことをやった後の余暇は最高である。
昨日で実質、今年の大学の授業は終わったのだがとりあえず学部にやりのこしたこと(やりたかったけど、やれなかったことだらけだが)を見つめなおさないといけない。
まだ総括するには早いけれど、来年は「これやりたいな。」と思ったことは全部やっていこうと思う。まずちょっと手をつけてみる。それで続きそうならやり続けてみる。それで三日ぼうずになりそうなら、とりあえずそれは保留しておく、そんな風にして柔軟に対応していきたい。
育ちが保守的なもので、なぜか根拠もなく、今はコレをやらねばいけない、とかこれがベストなんだと悪い意味でもいい意味でも固執しすぎることがある。
これの効用はよい面もあれば悪い面もあるのだ。
確かにコミットメントは出来るが、なぜか心は満たされない。
ほんとうはやりたいことがあるのに、ちょっと我慢してしまう。
自分の感性を殺してしまっている。
それを少しやめはじめてから、自分の中に豊かな風が流れ始めたのだ。
ただ個人的には、ぬめぬめした心の状態も嫌いではない。
なぜだろう。自分を苦しめることが実は快楽なのかもしれない。
今までそれをのぞんでもきたと思う。
犠牲も多かった。もっといろんな選択肢が目の前には開かれていた。
ようは今と全く違った自分がいたかもしれない、ということは確かなのだ。
どこで、どうやって自分の人生の航路を決めていくかは、その場その場の判断なのである。
ちょっとでも潮流がかわって、そちらに流れようとすれば、別の流れには乗れない可能性があるのだ。
それは是々非々ではない。
流れはとめられない。
時の流れと同様に。
ただ今の自分にはどの流れにのってもいいなぁと思っていたりする自分がいるのだ。